日本で初めて実測で日本地図を作成した人物、伊能忠敬。ですが、彼がこのような偉業を成し遂げたのは、なんと50歳を過ぎてからでした。
実際に日本全土の測量を徒歩で行い、地図を製作したのは55歳から73歳に至るまでの18年間だったそうです。当時で考えると、55歳といえば十分高齢です。
今回は、人生後半戦でも活躍し、若者並みの行動力を発揮し続けた伊能忠敬についてご紹介していきたいと思います。
50歳で天文学を学びに江戸へ
日本で最初の実測地図を作ったことで知られる伊能忠敬は、1745年に千葉県で生まれました。
17歳で婿養子として酒造家に入ったのち、49歳まで経営者として資産を形成してきました。49歳になると、家業をすべて長男に継ぎ、隠居。50歳になった時、幼い頃から興味を抱いていた天文学を本格的に勉強するために江戸に出ます。
忠敬が天文学を学ぶため訪れたのは、天文方暦局という場所で、当時天文学の第一人者であった高橋至時や間重富の二人が属していたそうです。当時の至時は、忠敬よりも20歳も年下でしたが、忠敬は年齢に関係なく、真摯に学ぶ姿勢を見せ続けたそうです。
天文方にいるときのエピソードとして有名なのは、忠敬が「推歩先生」と呼ばれていたことです。最初、天文方にいた至時は、忠敬のことを「年寄りの道楽」だと思っており、忠敬が本気で学びにきているなどとは思いもしなかったそう。しかし、忠敬は昼夜問わず勉強をし続け、その姿勢に感動した至時は、忠敬のことを「推歩先生(すいほ=星の動きを測ること)」と呼ぶようになったといいます。
55歳から実測で日本地図の作成へ
55歳の時、忠敬は幕府当てに一通の手紙を送ります。その内容は、「隠居の慰みとは申しながら、後世の参考ともなるべき地図を作りたい」というものだったそうです。
実は、天文方のなかでは、地球の直径がどのくらいなのかを皆が知りたがっていました。正確な直径を導き出すためには、江戸から蝦夷地までの距離を測らなくてはなりません。
しかし、当時は幕府の許可なしには、勝手に蝦夷地には入れなかったため、蝦夷地に入る名目として、地図製作を挙げ、幕府に依頼したというのが本当のところなのだそうです。
最初、幕府は忠敬の地図製作に対しては期待もしていなかったそうですが、完成した地図の精密さに、東日本の地図製作だけだったものが、日本全土の地図を製作するよう命じられ、いつのまにか国家事業に携わることになっていたという話です。
忠敬は1800年に第一次測量を始め、1816年の第十次測量を終えるまで、約18年間も徒歩による実測で地図を作り続けました。忠敬がはじき出した緯度1度の距離は、現在の値と比較してもおよそ1000分の1という精密さです。55歳から日本全土を歩きまわるというだけでも信じられませんが、出来上がった地図の正確さにはまた驚きですよね。
彼を動かしたのは知識欲だった!
50歳を過ぎてなお、忠敬がここまでできたのはなぜでしょうか。
現在わかっているのは、地図製作のきっかけにもなった「地球の大きさを知りたい」という知識欲が原動力になっていたということです。
50歳を過ぎてからでも江戸へ行き、20歳も年下の人物に頭を下げて学び、さらに日本全土を歩いて作った地図が、驚異的な正確さという超人ともいうべき伊能忠敬。人間いくつになっても、なんでもやればできる! という可能性を教えてくれますよね。
いかがでしたか? 人生50年とも言われていた時代だったにもかかわらず、50歳から学びはじめ、さらに55歳を過ぎてから日本初の実測地図を完成させるという偉業を遂げた伊能忠敬。彼の行動力や成功例からは、人間はいくつになっても、挑戦し続けることができるということを教えてくれますね。
参考: