水が飲めない。こう言うと世間はどう思うだろう。豊かな日本にいてなぜ。口内炎でもできているのか。体の具合でも悪いのかと。
私が水を口にできなくなったその理由は、ダイエットである。当時中学生だった私は体重が増えるのを怖れて水さえ飲めなくなっていた。
農家を営んでいる両親は逐一私のことに構う余裕もない。繁忙期は夜中まで作業場は灯りがついている。とにかく痩せたい私の頭の中は食べ物のことでいっぱいだった。何を食べるかより何を食べないか、そんなことばかり考えていた。三ヶ月で十キロ落ち、生理も止まった。身体は痩せこけ、もはや人体模型のようだった。ここまでくると両親も心配しないわけがない。しかし、痩せた姿を見せまいと夏もジャージで身体を隠した。「痩せすぎ」「ガリガリ」この言葉は当時私にとっては最高の褒め言葉だった。
アナログよりデジタルの体重計が好きだった。小数点以下の減量さえも喜びだった。しかし、そんなわがままな生活も長くは続かなかった。真夏の部活中に体育館で倒れた。保健室に駆けつけた母は地下足袋だった。養護の先生に注意を受け、母と一緒に頭を下げた。これ以上体重を落とすようでは入院だと言われた。「何でもモリモリ食べるのよ。」なんだか小学生に向かっていうような言葉だが母は必死だった。しかし、私は「食べさせられる」という恐怖で一歩踏み出す足が重かった。とうとう開いたその口は生意気にも母を攻撃した。「お母さん、太るの怖い。肉も油も使わないで。」すると母は「何言ってるの。あなたの身体は、お父さんとお母さんの身体なのよ。」と、人目を憚らず大きな声をあげた。
この時、「あなた」ではなく「あんた」と言っていたかもしれない。でも言葉で十分愛情が伝わった。頬ではなく言葉で胸を打ってくれた母には感謝しかない。あの頃の味はその日の夕食である。取れたての野菜がたっぷり入った鍋。久しぶりに母が目の前でよそってくれた。懐かしい芋煮汁。母がおたまですくった大自然は、生命力がみなぎっていた。箸も声も躍るような食卓に家族のありがたさを目一杯感じた。まったく恐怖心がなかったかと言えばそれは違う。おわん一杯食べ終わるにも10分以上かかった。それでも家族は私の異常な食行動には目をつぶってくれた。ゆっくり食べる隙間を温かい会話で埋めてくれた。
そしてようやく暗いトンネルを抜けた私は、いま、思春期の娘を前にあの時の母の気持ちを味わっている。娘は当時の私の生き写しかと思うくらい、行動も言動もそっくりである。神様が私に授けた使者かと思うくらいだ。食べたい、でも痩せたいが口癖。こちらも気が気ではない。でも、大丈夫。そんなことにも負けないように生んである、そう信じて今日もお勝手に立つのだ。あの時の母の味を思い出しながら。