母の手作り納豆:荒井茂
私が小学生の頃、農家だった家の前には米や野菜を入れておく蔵があった。毎年稲刈りが終わり、わらが出来上がると、そこで母の納豆作りが始まった。何日も前から準備が始まる。
末っ子の私は年の離れた兄と姉におだてられ、パシリを買って出た。東北の晩秋はすでに寒いが、母と一緒に、たくさんの大豆を冷たい水で洗って浸した。そして柔らかくなるまで何時間も煮て、ふっくらとなるまで炊きあげた。終わると、つとと呼ばれる、母がわらで作ったいくつもの器に丁寧に詰め、さらにわらで包み込んでむしろの上に寝かせた。わらに天然の納豆菌がついているなど知る由もなく、幼かった私はただ待つ日々を送った。ある日、下校してきた時、倉にある納豆のわらの山から、真っ白い煙が立ち上がっているのを見つけた。私は「かあちゃん、大変だ。倉が火事だ」と慌てて家に飛び込んだ。すると母は「何でもねぇ。うめえ納豆出来っがら」と笑った。今考えると、発酵する際の熱だったのかもしれない。
やがて出来立ての納豆が食卓に上がった。いくつかのつとから納豆を出し、大きなどんぶりに入れるのは私の役目だった。そして家族みんなで回しながら、それぞれのご飯にかけた。「茂は?」と聞かれたが、「僕はげっぱ(最後)でいい」といつも答えていた。遠慮深げに言っていたものの、実は大きな楽しみが二つあった。一つは、最後は多めに残しておいてくれること。そして最大の楽しみは、その大きなどんぶりに、砂糖を少し入れて食べることだった。どんぶりの中でかき回すたびに、強く糸を引くようになり、そこに醤油を垂らすと、甘じょっぱい風味が何とも言えず食欲をそそった。そして口にほおばると、柔らかな納豆の香りが口中を満たし、至福の時を得た。酒好きの父は砂糖に驚いたのか「え?」という顔をしていたが、私は堂々と家族みんなに見せ食をした。母の手作り納豆は、時に納豆汁になった。豆腐ときのこ、そしてネギを入れ、とろとろ感のある納豆汁は、東北の冬に向かう絶好のエネルギーになった。「んめが?」「うん」「えがったの」と言うのが、その頃の母との楽しい会話だった。その母との生活も十八歳で終え、私は都会に出た。納豆はパックそして小粒も当たり前になったが、でもどこか母の味が懐かしかった。
あれから50年。今、離れて住む私の子供達がたまに帰ってくる。食事時になると、申し合わせたかのように、冷蔵庫から納豆を出し食卓に乗せる。食費が安く済むと家内は喜んでいるが、私の食の好みは世代を越えて伝達すると、一人悦に浸っている。でもその風景を見るたびに、この子達に、天国にいる母の納豆を食べさせてあげたいとしみじみ思う。