プロローグ
「今だよ、桃太郎!」
イヌが桃太郎の腕をくわえて揺さぶり、奮い起こしました。
もうろうとする意識のなか、倒れた赤鬼の喉元に飛び乗りました。なんとか剣を構えると、出発前におじいさんとおばあさんにした約束が頭をよぎりました。
「ぜったい鬼を倒して、生きて帰るんだ!」
そう叫んで、剣を振り下ろそうとしました。
しかし赤鬼が発した予想だにしない言葉を聞いて桃太郎は、剣先を赤鬼の喉元にかすめただけで、そのまま鞘に収めてしまったのでした……。
第1章 桃から生まれた男の子
昔むかし、なだらかな海に乗り出すようにそびえる山裾に、ある村がありました。
斜面が急で、けっして住みやすいとは言えませんが、食べ物には恵まれた土地です。毎朝はやくから男たちは海へ漁に出て、女たちは棚田で稲を育て、しあわせに暮らしていました。
ですが、この村はひとつだけ、悩みの種を抱えていました。
毎年収穫の時期になると、鬼が襲いに来るのです。
村人に危害を与えることは滅多にないものの、鬼たちは村人が苦労して育てた米や野菜を盗んでいきます。しかし、非力な村人たちでは強靱な鬼たちに敵うはずがなく、鬼たちが村を闊歩するあいだ、家の中でじっと堪え忍ぶしかありませんでした。
この村のはずれに、ある老夫婦が住んでおりました。
とても愛情深く、村民から慕われ、なに不自由なくしあわせに暮らしていましたが、残念ながら、長いあいだ子宝には恵まれませんでした。
ところがいつのころか、ふたりの家には、桃太郎という元気な男の子がおりました。
聞けば、おばあさんが川で洗濯していたときに流れてきた、おおきな桃から生まれた子だそうです。
村人たちは、はじめこそ桃太郎が実は鬼の落とし子ではないかと恐れました。しかし、まだ小さな体で、腕をいっぱいにひろげて、おじいさんが刈った柴や、おばあさんが川で洗った洗濯物を持って帰る姿を見るうちに、「なんて親孝行でいい子なのだろう」と顔をほころばせるようになりました。
ふたりが愛情深く育てた桃太郎は、力強く、逞しい少年に成長しました。
十歳になるころには、この村には桃太郎と力くらべをして勝てるものは誰もいなくなっていました。
村人たちはよりいっそう桃太郎を頼りにし、しばしば漁や農作業を手伝ってもらいました。子どもたちもみな桃太郎のことを慕っていました。「桃太郎がいれば、鬼も熊も怖くない」と、遊びに行くときにはかならず桃太郎を誘ったのです。
ですが、あまりにも正義感が強いため、喧嘩の仲裁を頼まれたさいに、相手の子どもに怪我を負わせることが度々ありました。
そのうち桃太郎は、子どもたちが集まる相撲大会などの遊びには誘われなくなりました。相撲は子どもたちのなかで一番人気の遊びだったため、和気あいあいと相撲を取っている様子を見かける度に、寂しさを噛みしめました。
第2章 村でのさばる影
そんな桃太郎のことを村長は特別気に掛けていました。
よく家に招いては、剣術や柔術の稽古を付けたり、お茶を飲みながら桃太郎の暮らしぶりを尋ねました。
「毎日楽しいかい、桃太郎」
「おじいさんとおばあさんは優しいし、村のみんなもとてもよくしてくれるし、楽しいです。ただ、ひとつ分からないことがあって……どうして村の人たちは鬼を倒さないのですか?」
「むずかしい質問じゃな。」
村長は腕を組んでしばらく考え込みました。
「まず我々には鬼を倒すほどの力はない。じゃから、立ち向かったところでまず勝てん。それに、さいわいこの村には恵まれた田畑と海があるからの。多少鬼に持って行かれたところで、我々が飢えることはないじゃろう。」
これまで村長の言うことは不思議とすべて理解できたのですが、今回ばかりは納得がいきませんでした。
その帰り道、桃太郎は独りつぶやきました。
「鬼を倒して村のみんなに認めてもらいたいな」
ある日、村長の家から帰ってくると、家の前でおばあさんと隣の家のおかみさんが話しているのが聞こえました。
「いいわねえ、桃太郎は力強くて親孝行で、だれからも愛されていて。うちの子とは大違い。やっぱり桃から生まれた子は特別なのかしらね」
「ええ、何でも言うことを聞いてくれる自慢の息子ですからね」
それを聞いて桃太郎はおもわず苦笑いしました。
その夜、夕飯を食べながらおじいさんとおばあさんに尋ねました。
「ねえ、僕が鬼退治に行くって言ったらどう思う?」
するとふたりは見たこともないくらい怖い顔をして、言いました。
「何言ってるんだい。うんと小さいころに見たろ? 大木のような金棒を担ぎ、おそろしい顔をして、夜な夜なうちの前の道を歩く鬼の姿を。あんなのがうじゃうじゃといるなかに飛び込むなんて、死にに行くようなものじゃないか」
「それにしくじったら、奴らはかならずこの村に仕返ししに来るだろうよ。そんなことになったら、村じゅう皆殺しにされてしまうよ」
桃太郎は愕然としました。これまでふたりに何かを反対されたことなどなかったからです。
「僕、そんなことまで考えつかなかった……」
しょんぼりとうなだれる桃太郎に、おばあさんが笑って言いました。
「もしもおまえが小びとのようにうんと小さくて力が弱くても、巨人のように大きくて力が大きすぎたとしても、私らの自慢の息子であることには変わりないんだから、それでいいじゃないかい」
その言葉を聞いて、桃太郎は胸にじわりと温かいものが広がるような気がしました。そして、ひとまず鬼退治のことは忘れることにして、眠りについたのでした。
第3章 桃太郎の決意
ところが、桃太郎が生まれてから15年目のある日、船乗りが襲撃されたという知らせが村を駆け巡りました。
桃太郎がいそいで船着き場に向かうと、そこにはあちこちに矢が刺さり、板が剥がれたボロボロの船と、横たわり、介抱されている血まみれの船乗りたちがいました。
船乗りのひとりが桃太郎の姿を認めると、震える手を伸ばして桃太郎の腕を掴み、言いました。
「俺たちの仲間があいつらに……鬼に連れ去られたんだ! この村で頼れるのはおまえしかいない。助けてくれ、桃太郎」
桃太郎は驚きで目を見開き、船乗りの必死な形相に気圧されたように、何も言わずにうなずきました。
桃太郎は慌てて村長の家に駆けつけました。
「村長、たいへんです! 船乗りが鬼にさらわれました!」
村長は真剣な顔をして、言いました。
「あの船は海を隔てた隣町への交易船じゃ。今年はどの村も不作で、満足する食料が手に入らなかったから、襲われたんじゃろう。米や魚と一緒に酒樽もたくさん積んであったはずじゃから、きっと今ごろ鬼たちは宴会を開いているであろう」
「じゃあ今ごろ鬼たちは酔っ払って、隙だらけなのですね」
「そうじゃ、積年の思いを果たせるときが来たのじゃ。頼んだぞ、桃太郎」
そう言って桃太郎の肩を力強く掴みました。
そして、武具を用意することと、村の若者たちへ鬼退治に同行するよう声を掛けることを約束され、桃太郎は村長の家を後にしました。
家までの道を歩きながら、桃太郎は迷っていました。
おじいさんとおばあさんに鬼退治を行く旨を伝えたとしても、反対されるにちがいありません。だからといって、人質を見殺しにすることもできません。
「でも、僕はこの数年でさらに強くなったんだ。それに、ひとりきりで行くわけじゃない。いまならきっと鬼も倒せるはずだ。」
そう思い、勇み足で家へ帰りました。
おじいさんとおばあさんにことの次第を話すと、意外にも反対されませんでした。
「桃太郎が自分自身で決心したことなのだから、わしらは信じますよ。ただし、ぜったいに鬼を倒して、生きて帰ってくることを約束しておくれ」
おばあさんは桃太郎の両の手を掴んでそう言うおばあさんに、桃太郎は安心させるように笑いかけました。
「もちろんだよ。そのために毎日毎日、村長のところで鍛錬していたんだもの」
「そうだ、自慢のきびだんごを作ってやろう。困った時に食べるとうんと力が出るよ」
「じゃあわしはノボリを作ろう。うんと立派で鬼も逃げ出すくらいのノボリをな」
そう言うふたりを前に、桃太郎は絶対に鬼を倒そうと決意するのでした。
第4章 いざ鬼退治へ
出発の朝が来ました。
桃太郎は村長に用意してもらった武器や鎧、おじいさんが夜なべして作ってくれた『桃太郎・鬼退治』と書かれた立派なノボリ、そしておばあさん特製のきびだんごを腰から下げて、村人たちが見つめるなか、凛々しく立っていました。
しかし、そこにはともに鬼ヶ島へ行くはずの若者たちの姿はやはり、ありませんでした。
みなに見送られ、ひとりで村を出た桃太郎は、村長に教えてもらった、鬼ヶ島にいちばん近い港までの道を進みました。
ひとりきりで変わり映えのしない道を歩いていると、このまま永遠に港にたどり着けないのではと不安で、なんだか胸にすきま風が吹いているようです。
しばらく進んでいると、うしろから微かに物音がしました。振り向いてみると、木陰から一匹のサルが覗いていました。
「なんだサルか…」
そう安堵して、歩みを進めましたが、うしろからトコトコとついてくる足音がします。
ふたたび振り向くと、サルは桃太郎のすぐ後ろまで来ていて、腰のあたりをじっと見つめています。
「これはおばあさんから鬼退治のためにもらった特別なきびだんごだから、あげられないんだ」
そう言うやいなや、サルはぱったりと背中から倒れてしまいました。
桃太郎は驚いて駆け寄りました。よく見てみると、サルはひどく痩せていて、苦しそうに呻いています。
あわてて腰につけていたきびだんごをサルの口元へと持って行きました。サルは夢中で口を動かし、きびだんごを食べると、だんだんと生気を取り戻していきました。
「ありがとう。おかげで助かりました。じつは山火事が起きて、いつも果物や木の実を取っていた木がみな焼けてしまい、困っていたのです。なんとお礼をしたらいいか」
桃太郎はすこし考えて、言いました。
「じゃあ、しばらく旅につきあってくれないかい?」
「もちろん、お供いたします」
そして桃太郎はサルと一緒に歩きはじめました。桃太郎はサルが鬼と戦えるとは思いませんでしたが、旅を共にする仲間ができたことではじめて、冷たかった胸がすこし暖かくなりました。そして旅を続けるうちに、桃太郎はサルに鬼退治についての悩みを打ち明けるようになっていました。
もうすこしで港に着く、というところで、道の先で喧嘩をするイヌとキジが目に入りました。イヌはキジに噛みつこうと必死で飛び跳ねていますが、空を飛べるキジに届くはずがありません。
桃太郎が何をしているのかと尋ねると、イヌはこちらに駆け寄ってきて、言いました。
「僕のご主人さまが鬼に連れ去られてしまったんだ。だからこれから助けに鬼ヶ島に行くんだけど、キジが『おまえの力じゃ無理だ』って馬鹿にするんだ!」
それを聞いたキジがパタパタとこちらに飛んできて、言い返しました。
「だって見たんだよ! あいつらギラギラした目をして、ふつうの人間より何倍もおおきな体をしていて。そんなのにイヌっころ一匹が敵うはずないよ!」
「そんなことないもん!」
イヌはふたたびキジに噛みつこうとしましたが、キジはひらりとそれをかわします。
それを見かねた桃太郎は言いました。
「ちょうどいい、いまから僕たち鬼退治に行くところだったんだ。よかったら一緒に行かないか?」
するとイヌは「ほんとに!?」と目を輝かせました。
「僕の村も鬼たちに襲われたんだ。ほら、おばあさん特製のきびだんごをあげるから、一緒に行こう?」
そう言うとイヌは尻尾を振り回し、「よろこんでお供するよ」と言って、桃太郎の差し出したきびだんごをぱくりと食べました。
さて、港に向かおうと、桃太郎はサルとイヌとともに歩き出しました。
港に着くと、人気はなく、いまにも壊れそうな小舟が繋がれているだけでした。おまけに雨雲が立ち込めてきて、視界がよくありません。
「鬼ヶ島って、どっちに進めばいいんだ?」
桃太郎たちが立ち尽くしていると、うしろからバサバサと羽音が聞こえてきました。
「鬼ヶ島の場所知らないんだろう? 仕方ないな、俺が教えてやるよ」
キジはそう言って桃太郎の肩に飛び乗りました。イヌは不満そうな顔をしていましたが、鬼ヶ島の場所を知らない桃太郎は「これは心強い」と思い、連れて行くことにしました。
「どうせきびだんごが欲しいだけなんだろ?」と毒づくイヌを横目に、キジは桃太郎からきびだんごを受け取りました。
第5章 行く手をはばむ荒波
オンボロの小舟に乗って漕ぎ出した桃太郎たちですが、先へ進むごとにどんどん風が激しくなっていきます。
そしてピカっと空が光り、あたりに轟音が響き渡りました。全員が驚いて頭を伏せると、その勢いで船がバランスを崩して、ひっくり返り、桃太郎たちは海に投げ出されました。
桃太郎はなんとかひっくり返った船に掴まり、キジは空を飛び、イヌは泳げるので無事でしたが、サルの姿が見当たりません。あたりを見渡すと、波間に浮いたり沈んだりしながら、どんどん遠ざかっていくサルの小さな頭が見えました。
いま船から手を離したら、桃太郎まで波に飲まれかねません。かわいそうだけれど諦めよう……と思った瞬間、きびだんごを食べた直後のサルの嬉しそうな顔や、旅の途中でふざけ合ったことを思い出しました。
気づいた時には桃太郎は重い鎧を脱ぎ捨て、小舟から手を離し、サルが流されていったほうへ泳いでいました。無事にサルを捕まえて、戻ろうとするも、波の勢いがあまりにも強すぎます。
すると、イヌがロープをくわえて、泳いで来るではありませんか。
桃太郎はロープをつかみ、なんとか小舟に戻りましたが、嵐はいっこうに止まず、ただただ荒波に身を任せるしかありませんでした。
気がつくと、桃太郎たちは岩だらけの浜辺に投げ出されていました。着物はぐっしょりと濡れていて、起き上がろうとすると、体のあちこちが痛みます。
キジに聞くと、どうやらここが鬼ヶ島だそうです。
桃太郎はそばで横たわっていたイヌとサルを起こしました。
「助けてくれてありがとう」とサルが言うと、桃太郎は「いや、お前のおかげだよ」とイヌに言いました。
「目が覚めるまで俺が見張ってあげたんだからな」と豪語するキジに、イヌが「おまえのそういう物言いが腹立つんだってば」と飛びかかり、桃太郎とサルは顔を見合わせて「ほんとに仲がいいな」と笑いました。
そして、みなで最後のきびだんごを分け合い、「ぜったいに鬼を倒して、みんなで生きて帰るんだ」と誓い合いました。
第6章 鬼ヶ島での戦い
キジによると、鬼たちの住処は岩場で囲まれていて、ただひとつの入り口はおおきな鉄の扉で閉ざされているそうです。
「門番は泥酔しているから、いまがチャンスだぜ」
桃太郎は少し考えて、動物たちの顔を見回しながら言いました。
「僕とイヌとで扉を叩いて気を引くから、その隙にキジとサルは岩場を超えて、門番の背後から攻撃を仕掛けてくれ」
動物たちは「合点承知!」と言って胸を叩き、それぞれの配置に向かいました。
門扉は桃太郎の何倍もの高さで、とても人の手で開けられる気がしません。
岩陰にひかえたキジとサルと目を合わせると、桃太郎はドンドンと力強く扉を叩きました。
ドスドスという足音いくつも近づいてきました。どうやらほかの場所にいた鬼も集まってきたようです。
ごくりと生唾を飲んで、桃太郎は叫びました。
「僕は桃太郎だ。連れ去られた仲間を取り戻しに来た」
すると、ギィ……という鈍い音とともに、ゆっくりと扉が開きはじめました。桃太郎は腰を落とし、刀を構えました。
そのとき、突然ゴツンという音がして、鬼達の叫び声が聞こえはじめました。
「いてっ。なんだあのサル、石投げてきやがる!」
今だ、と思った桃太郎は、わずかに開いた扉のあいだに体をねじ込みました。10人ほどの青鬼たちは千鳥足でふらふらしながらも、急な岩場の上から石を投げつけるサルを捕まえようと躍起になっています。
桃太郎に気づいた青鬼が桃太郎に殴りかかってきましたが、キジがその鬼の首めがけて急降下し、くちばしをつきたてると、鬼は悲鳴をあげて倒れ込みました。イヌは青鬼たちの振り回す金棒のあいだをくぐり抜け、次々と鬼のスネに噛みついていきました。桃太郎も刀を振るい、襲い来る鬼たちを切りつけ、先へ先へと進んでいきました。
第7章 赤鬼との対峙
そして、島のいちばん奥だと思われるおおきな洞窟のなかに入り込みました。ここにはもう鬼はいないようです。
桃太郎と仲間たちは息を整えながら、それぞれの戦いを讃え合いました。みな毛や羽が一部剥がれ、痛々しい姿でしたが、その表情は不思議と晴れやかでした。
洞窟の奥まで進むと、木枠に囲われた檻があり、そのなかに船乗りたちがいました。そのなかに見たこともないくらい鮮やかで立派な着物を着た、可憐なお嬢さんの姿がありました。
「ご主人!」と言って、イヌはお嬢さんのほうへ駆け寄っていき、お嬢さんも涙をこぼしながら、柵越しにイヌを抱きしめました。
桃太郎は力ずくでかんぬきを壊すと、船乗りたちを助け出しました。
「桃太郎! きっと助けてくれると信じていたよ!」
そう言って泣きながら桃太郎に抱きつく船乗りの腕は、ぞっとするくらい冷たく、いったいどれほど怖い思いをしたのだろうとおそろしくなりました。
イヌは桃太郎たちに向けていたものの何倍もの笑みを浮かべ、お嬢さんとの再会を喜んでいました。桃太郎がそちらを見つめていると、お嬢さんがふとこちらを向きました。目が合った瞬間、桃太郎は不思議な懐かしさを感じました。
しかし、次の瞬間、お嬢さんの笑顔が凍りつきました。おびえた瞳は桃太郎の背後を見つめていました。
桃太郎がおそるおそる振り向くと、そこには、いままでの鬼たちとは比べものにならないほど大きな鬼が立ちはだかっていたのです。
てらてらと不気味に光る赤い肌をして、不敵な笑みを浮かべる鬼の大将を前に、恐ろしさで思わず一歩後ずさりました。
桃太郎は振り向いて、船乗りたちとお嬢さんにできるだけ安全なところにいるよう声を掛けました。仲間たちも鬼を見上げて、恐怖で立ちすくんでいます。
正面を向き、剣を握り直すと、刃先が小刻みに震えています。そこではじめて自分がおそろしさで身震いしていることに気づきました。
覚悟を決めたように深呼吸をすると、勢いよく地面を蹴り、切り掛かりました。
しかし、渾身の力を込めた剣は、あっさりと赤鬼の手に掴まれてしまったのです。そして、赤鬼はおおきな拳を桃太郎の頭めがけて振り下ろしました。
その瞬間、何かが赤鬼の顔めがけて飛びかかりました。それは、顔を真っ赤にして、夢中で赤鬼の顔を引っ掻くサルでした。
すると赤鬼の拳が緩み、剣が抜けたのはいいものの、桃太郎は地面に倒れ込み、その勢いでおもいきり頭を打ちつけてしまいました。後頭部にはどくどくと生暖かい感触が広がり、血が出ているようです。
赤鬼が顔に張りついたサルを払い落とそうとした瞬間、キジが飛びかかり、鋭いくちばしで赤鬼の目を突いたのです。
「うわああああ」と叫んで赤鬼は仰向けに倒れました。
「今だよ、桃太郎!」
イヌが桃太郎の腕をくわえて揺さぶり、力強く呼びかけました。
もうろうとする意識のなか、桃太郎は倒れた赤鬼の喉元に飛び乗りました。なんとか剣を構えると、出発前におじいさんとおばあさんにした約束が頭をよぎりました。
「ぜったいに鬼を倒して生きて帰るんだ!」
そう叫んで、剣を振り下ろそうとした、その時です。
「俺の命はくれてやる。でも大事な仲間たちだけは助けてやってくれ」
「大事な仲間?」
桃太郎は耳を疑いました。
おどろおどろしい赤鬼の血走った目から、一筋の涙が流れました。
桃太郎は剣先を赤鬼の喉元にかすめることで、心の中で赤鬼を葬り去ったのでした。
その昔鬼たちは人間とともに暮らしていましたが、その見た目から化け物だと差別を受けて、この鬼ヶ島へ追いやられてしまったといいます。
岩ばかりで田んぼも畑もなく、海も荒れていて何も獲れないので、人間を怖がらせて、食べ物を盗むしかなかったそうです。
ほかの鬼たちは赤鬼のそばでしくしく泣いたり、赤鬼を殺させまいと、震えながらこちらを睨んでいます。
「鬼は僕たちが思っていたような極悪非道ではなかったんだ……」
桃太郎は赤鬼に手を差し出して、言いました。
「他の村を襲うくらいなら、僕の村で食べ物を作りながら、ともに生きないか?」
すると赤鬼はいたく感激して体を震わせ、桃太郎の手を取り、頭を下げました。
「あんたの器の大きさに感動した。ぜひ家来にさせてくれ。これからあんたに付き従う証として、俺たちが持っている財宝を、すべて明け渡そう」
そう言って渡されたのは、まばゆいばかりの金銀財宝の山でした。
第8章 赤鬼の覚悟
その晩、桃太郎は赤鬼たちと火を囲み酒を酌み交わしながらさまざまな話をしました。
赤鬼によると、泣いていた鬼たちは鬼ヶ島に留まると言っているそうです。
「あいつらからしたら、俺が誰かの下につくのが悔しくてたまらないんだろ。可愛い子分なんだが、これでお別れかな」
そう言う鬼の顔は不思議と、憑きものが落ちたようにさっぱりとしていました。
「寂しくないのか?」
「そりゃあ寂しいが、鬼がふたたび人と暮らせる機会なんて、これを逃したらないだろう。俺が行かなければ、何十年、何百年経っても鬼は人に憎まれるだけの存在だろう」
その鬼の言葉を聞いて、自分がやろうとしている事の重大さを思い知りました。そして、何としてでも自分が鬼と人とが共存共栄できる世界を作らなければと決意し、眠りにつきました。
第9章 故郷への帰還
日の出とともに鬼ヶ島を出発しました。鬼たちが操縦してくれた船が村につくころには、すでに日が天高くのぼっていました。
鬼退治をせずに帰ることに村人たちがどう思うのか不安でしたが、それよりも鬼と人を仲良くさせるという使命のほうが大事だとあらためて自分に言い聞かせました。
港に着くと、イヌとお嬢さんは隣の村へ、サルはふるさとの森へ、キジはからかう相手を探しに大空へ、それぞれ去って行きました。
しばらくすると桃太郎と船乗りの姿を見つけ、村人たちが駆け寄ってきました。
「死んだと思っていたよ桃太郎。なんとなく顔つきが変わったようだな。」
「いずれにしても、おまえはこの村の英雄だ!!」
しかし、船のうしろからおそるおそる赤鬼と数人の青鬼が姿を現すと、村人たちは逃げ出しそうになりました。
「ど、どうして鬼がいるんだ!? 退治したんじゃなかったのか?」
ビクビクしながらそう尋ねる村人たちに事情を話すと、驚きながらもしぶしぶ納得してくれたようです。
こうして、鬼を交えた新たな村の生活がはじまりました。
鬼たちはみな力持ちで、情が厚く、桃太郎や村人たちのために一生懸命働きました。また、鬼の財宝を売って得たお金で、村はこれまでに増して豊かになりました。
食い扶持が増えたから、と新たに田畑を切り開いてくれたり、漁を手伝ってくれたり、と献身的に働き、村人たちはみな大助かりで、少しずつ、少しずつ、鬼たちと打ち解けていきました。
第10章 あたらしい村づくり
そして鬼たちを連れて帰った桃太郎は、村人と鬼が仲良く暮らすようになるにつれて、これまでとは違うかたちで頼りにされるようになりました。
力仕事だけではなく、鬼との接し方についてや、隣の家とのもめ事などについて相談されるようになったのです。
すると次第に、村で何かをするとき、村人は村長ではなく、桃太郎に相談するようになりました。
ある日、桃太郎は今年の収穫祭について相談しに、久しぶりに村長の家を訪ねました。
軒先から村長の姿を見つけ、声を掛けようとしたときです。
「何をしにきたんじゃ」
低く、冷たいその声に、はじめ桃太郎はそれが村長が発したものだとは気づきませんでした。
「さぞ楽しいじゃろうな、英雄気取りは。わしが目をかけてやったからこそ鬼を倒せたというのに、村人たちはわしには目もくれん。桃から生まれた化け物なんて、山に捨ててしまえばよかったんじゃ」
桃太郎は耳を疑いました。そして、胸を刀で突き刺されたような気分になりました。
その帰り道、かつての優しかった村長の姿を思い出し、桃太郎は考えました。鬼退治に行ったはずが、勝手に鬼を連れ帰ってきて、一緒に住まわせるなんて、村長からすると裏切りも同然でしょう。
「僕はリーダーを気取って、いい気になっていただけだったんだ。いまこの村にとって、邪魔者は僕なのかもしれない」
第11章 桃太郎の願い
そんなとき、ひとつ山を越えたところにある村で、鬼が暴れているという噂が届いたのです。それを知った桃太郎は、ふたたび鬼退治に行くと言い出しました。
おじいさんとおばあさんは前回とは打って変わって猛反対しました。
「この村はもう平和なんだから、それでいいじゃないか。どうしておまえが行く必要があるんだい?」
「老い先長くないわしらを見捨てていくのか」
そう問いただすふたりに、桃太郎は言いました。
「鬼と人間を仲良くさせたい。それが僕の願いなんだ」
桃太郎は赤鬼の畑を訪ねました。
赤鬼は桃太郎を見つけると、畑を耕す手を止め、嬉しそうに近寄ってきました。
「野菜を育てるのは楽しいかい?」と聞くと、赤鬼は満面の笑顔でうなずきました。
「あんたにはほんとに感謝してるよ。ここは食べ物にも困らないし、村人みな仲がいいし、村長さんもとてもよくしてくれて、いままでからすると夢のような生活だ」
「そうか、僕もうれしいよ」
そう言って桃太郎は立ち去って行きました。赤鬼によると、その背中がすこし寂しそうだったことが気になったそうです。
翌朝、おじいさんとおばあさんが目を覚ますと、そこに桃太郎の姿はありませんでした。
早朝に漁に出た漁師のひとりが、川に沿って山を越えていく桃太郎と、付き従うイヌ、キジ、サルを見たと言いました。
その手にはいつの日かおじいさんが手渡した『桃太郎・鬼退治』と書かれたノボリが握られていたそうです。
そうして桃太郎は二度と、この村に帰ってくることはありませんでした。
エピローグ
数年後、あちこちの村で鬼と人間が一緒に暮らす光景が見られるようになりました。その村にはかならず『桃太郎・鬼退治』というノボリを持った若者が村を訪れ、人と鬼を和解させてくれたという話が伝わっています。